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鬼木鉦浮立

鬼木鉦浮立は、鬼木郷の大鬼木地区で受け継がれている浮流です。その由来は定かでないが、明治年間に佐賀県嬉野町不動山から師匠を迎え、再興したとされます。毎年行われていた九月二十日彼岸まつりでは昼間より大鬼木観音堂広場で出店が出る中、地域を挙げて奉納演技が行われていました。大小六個の鉦をはじめ、大太鼓、笛、締太鼓の音曲に乗せて「三番叟」「猿踊り」「銭太鼓」「花撥踊り」「鬼神囃子」「シャギリ」が華やかに舞われていましたが、最近では八月十六日に酒を飲み交わしながら、笛、太鼓、鉦、締太鼓の囃子だけで時にはお客様を含めて太鼓や鉦をたたいてもらっています。昭和四十七年(1972)三月二十九日、波佐見町無形民俗文化財指定となっています。戦時中、金属不足のため、鉦を没収され、戦後新たに鉦を作られたと聞いています。戦後は昭和二十年後半より浮立も復活し、あるときは学校の記念祭、また祝賀会での奉納踊りや各企業、家庭などお呼びが有れば祝賀の後に訪問していました。このようなまつりごとでは学校に了解を得て早退していました。金屋神社大祭では、鬼木より金屋神社まで往復歩きながら道囃子で浮立をしていましたが、苦労話に囃子や演奏外の方々で大太鼓や鉦を二人一組で肩に担いで歩くのが大変だったと聞いています。私たちが幼いころ(四歳から十歳くらい) 、「大黒踊り(通称大黒さん)」を十五人くらいで太鼓の周りを踊っていました。浮立踊りには午前(ひんまえ)の踊りと午後(ひっから)の踊りがあります。大黒さんは午前踊りはタイの魚の付いた竹棒(二色の紙を巻いた)を肩に担ぎ、外を眺めるような手をし、下にはらいます。午後の踊りは先頭の子が小槌を持ち、両手を左右に振って踊る単純な踊りの繰り返しから始まりますが、馬子にも衣装でかわいいと言ってもらっていました。小学中級から中学までの子ども踊りに「本囃子(通称ほんぺし)」という、昔の雨傘のような帽子に飾り付けをし、二本の竹を後ろにたらし、腰には刀の侍の格好をして男一人で踊るものがあり、短期間ではありましたが私も踊った記憶があります。

「三番叟」は男二人で「オオサンヤリヤ、オオサンヤリヤ、ヨロコビヤリヤ、ヨロコビヤリヤ・・・」と、相撲の行司の格好で呼び出しするような場面もあります。「猿踊り」は猿の面をかぶり、男二人で踊り、ひょうきんさが求められます。午前踊りが終わり、一時合間を取りますが、その時、今の子供たちは知らないと思いますが、猿の体についた、ノミやシラミを取ったり、お客さんの所に行ってお菓子などをもらったりして悪ふざけをして笑いを取り、皆爆笑です。「銭太鼓」は女二人でタンブリンのような銭太鼓を両手に持って頭に鉢巻をし、地面、膝、腰、肩、上と、太鼓を当て踊ります。「鬼神囃子(きじんべし)」鬼の面をかぶり踊ります。私が昭和五十四年頃より親父や年配の方々の指導を受け、現在に至っております。鬼の面をかぶると泣く子もいました。次に入場しながら女性十五名程で踊る「道綾」太鼓の周りで踊る「綾竹踊り」、少しテンポが速い「シャギリ」と、最後に踊る「撥上げ」です。ほかに「飛竜囃子(ひゃりべし)」は五十七年度くらいまでは踊られていましたが、その後曲目に限度があり、出番がありません。「追廻し」は両手で竹を持ち踊ります。「御々嬢」は男の子がぎらぎらした王冠のような物をかぶり、女踊りをします。私は大阪にいましたが、故郷に憧れ、昭和四十七年暮れに鬼木に帰ってきました。都会にいると田舎の良さが分かります。空気や自然、のどかな風景があります。帰郷後ただちに陶器の商社に入社、浮立は昭和三十五年くらいから一時途絶えていたが、昭和四十八年頃から二十代の若者が五、六人集まり、たまに遊び麻雀をしながら、浮立を復活させようと練習を始めました。私も笛を吹きますが、まずは笛から練習です。笛との出会いは私が十二歳頃、夏になると浮立の季節となり、夕涼みしながら一緒に親父が吹く指の動きを見て、見よう見まねで吹きますが、最初はなかなか鳴りません。唇の使い方、息の吹き方、自分で工夫して鳴らします。また、浮立には譜面がなく、替え歌を耳で聞き覚えるしかありません。仲間と練習を積み重ねる中、チャンスが訪れました。昭和五十一年八月二十二日第二十五回長崎青年大会郷土芸能の部に出場の依頼があり、出場しました。そこで見事優秀賞受賞です。審査員に越中先生がおられ、笛、鉦、太鼓、踊りと調和が取れ、他の地区で二、三人でする神楽などもありましたが、鬼木浮立は大変面白いと、「まだまだ磨きをかけて頑張ってくだください」と激励いただきました。同じ年の十一月五日、東京代々木での全国民族芸能大会出場です。みんなは、東京に行ける喜びで心弾ませ、当時の寝台列車あかつきに三十人ほど乗って行きましたが、車内で笛の練習をしていた一人の仲間が窓際に笛を置いていたところ、窓から笛を落としたと大騒ぎになりました。幸い笛が余分にあったので助かりました。その時のエピソードとして思い出されます。同じく大会終了後、東京の靖国神社にて観客に見守られる中、奉納演技もでき、靖国神社宮司様より感謝状もいただきました。

昭和五十四年十一月二十二日、長崎県にある鎮護国家竜宮住吉宮秋季大祭に於いて奉納、参拝者に多大な感銘を興えられたと生長の家総本山より感謝状を頂きました

昭和五十七年十月十七日、第二十四回九州民族芸能大会沖縄大会出場。

昭和六十一年十一月三十日、第二回長崎県民族芸能大会出場、この頃になると子供たちも大きくなり、親子五人で出場することができ、良い思い出となっています。

昭和五十七年四月、金屋神社千二百年大祭が行われ、大きな節目を迎え、奉納することが出来ました。その後十年ごとの大祭にも奉納する事が出来ました。西の原にあった旧中央小学校の廃校祭の折りにも演技をしています。最近では「日本再発見塾in長崎県波佐見町」の折に鬼木棚田の田んぼで演技をしましたが、笛や太鼓、鉦の音がのどかな山あいに鳴り響く音色はいいものです。鬼木棚田祭りでは平成二十一年、二十三年、二十六年と練習の成果を披露しました。

現在の浮立演目は時間に合わせて選んでいます。昔からしますと多少短縮になっているものと思われます。大鬼木地区の浮立であるが、平成二十四年より少子化の影響を受け、子ども踊りは鬼木以外の地区からも参加してもらっている状況です。練習は夏休みの期間中、八月より一ヶ月の間、練習日を決めて行っています。大人踊りも高齢になり、交代を余儀なくされています。鬼木浮立を紹介するにあたり、当時の写真など見ていると、あらためて感動する事が出来ました。大鬼木地区は現在二十二世帯、これまで皆様にお世話になりながら、浮立を通じて地域が一体となって協力し合い、交流が出来たのではないかと思っています。また、今後若者が伝承してくれる事を願っています。   (波佐見文化誌29号より)